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本丸櫓跡(標高492m)では山頂の櫓跡から宅良、今庄、湯尾、鯖波、脇本、今宿など一目瞭然である。登頂者は発掘整備された本丸周辺三方の堀切もぜひ確かめてほしい。
東御殿跡は、諸兵の休息所としての二の丸台地。昭和50年代の調査によって雑木林の中から居館跡礎石が見事に顔を出した。台地から数十歩下がると清水も湧き出ている。聳える松の巨木を
眺めての憩いは最高。
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西御殿跡・殿池の広場では戦闘訓練が行われたであろう。見下ろす西側には二重堀切があり、本丸に通ずる両側の高台には見張り小屋の礎石が現存している。北側の坂下に城中飲食水として使われた殿池の水面が歴史の重みを映している。
姫穴は、新田義貞の内室、勾当内侍が杣山に来て、一時隠れていた所と言われている。内侍は後、京都で仏門に入ったとの記録がある。
袿掛岩は、瓜生保が戦死したと聞いて夫人や女房たちがこの絶壁の岩に袿(うちかけ)を掛けて飛び降り、自害したという。
鎌倉時代に於ては七条院領杣山庄として聞え、吉野朝に於ては南軍の一根拠地として北国に雄視せしことは能く人の知るところなり。
殊に山勢頗る雄抜磊々たる岩石聳立し、林樹うっ蒼として日野川に臨み、北国街道をてつ製せるのが状、誠に史上の名城たる背かざるの感あり。杣山は固より延元元年(1336)より同3年に亘り、瓜生氏の居城として新田義貞をここに迎えて能く足利高経の軍と戦いし遺蹟として知られ、戦いのさまは「太平記」により窺い得るべきものなり。野川の河原で決戦して敗れ、城陥れり。後、朝倉の臣河合宗清之に居り、大正2年(1576)には一揆衆も亦杣山に拠りしあり。
されど瓜生氏以後戦蹟として著しく知られることなし。
− 「杣山城と瓜生保」より抜萃 − |
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