◆ 河野浦と海運

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★ 河野浦の地理的条件

  旧河野村は越前海岸の南端、敦賀湾のほぼ入口に位置する。山々が海に迫り、わずかに残された平地には、家々が帯のように密集して形成している。現在の国道305号線のような海岸沿いの道路もかってはなく、「北前船主の館 右近家」の建つ河野浦をはじめ、現在、旧河野村に含まれる多くの集落は海に向かって開かれ、海とともに生きてきた”海村”であった。

★ 中世の河野浦

  河野浦の古い時期の様子は詳らかでないが、その頃は漁業を中心とする浦であったと思われる。中世に入り、15世紀頃にもなると、河野浦や隣接する今泉浦には敦賀湊から船が着岸するようになる。この両浦から、いわゆる西街道を利用して山を越えれば、当時の越前の中心地である府中(現在の武生市)は間近であった。こうして、物資の輸送は勿論のこと、京の公家冷泉為広卿をはじめ、旅行者の往来にも河野・今泉の両浦は利用された。

  戦国期には、河野浦や今泉浦の船は、戦国大名朝倉氏から御用を勤める代わりに課税免除の特権が与えられ、三国〜敦賀間等の物資輸送にも従事していたようである。なお、敦賀湊には中世末に河野屋座と呼ばれる船座があり、川船座とともに敦賀湊を拠点に廻船業に携わっており、河野浦や今泉浦での物資運送の営業権を有していることから、この両浦とも深い関係があったものと思われる。

★ 江戸時代の河野浦

  江戸時代における日本海海運は、今日では”北前船”という言葉でよく代表されるが、この北前船が目立って活躍するのは江戸時代の半ばを過ぎてからであった。それまでの間、日本海を行き交う廻船の多くは、幕府や諸藩の年貢米を上方に輸送する廻船と、いち早く松前蝦夷地(現在の北海道)に進出した近江商人が、その地で獲れた海産物を敦賀、小浜を中心とする地域に輸送するために共同で雇った”荷所船”と呼ばれる廻船であった。敦賀湾のほぼ入口に位置するという地理的条件から、河野浦の廻船の多くは近江商人の”荷所船”として活躍していた。江戸時代の中頃、享保14年(1729)の資料によれば、かってはこの浦で36隻もの廻船があったという。しかし、この年は4隻の廻船が一度に難破したため年貢納入にも困り果てたという。”板子一枚下は地獄”とは船乗りの間ではよく言われた言葉であるが、この浦でも父子ともに海難に逢って断絶した家もあり、廻船による商売の危険性をまざまざと見せつけるものであった。

★ 北前船の時代へ

  江戸時代も半ばを過ぎ、商品流通の発展にともない、日本海海運は飛躍的に発展を迎えることになる。18世紀の半ば、宝暦から天明期になると、松前蝦夷地における近江商人の地位が低下し、荷所船”として運賃積を行っていた廻船も買積み商いの比率を高めるようになる。松前蝦夷地の鰊は肥料としての需要が拡大し、商品価格の地域差を利用して、北前船の買積み商いは徐々に活況を呈することになる。近江商人の”荷所船”として日本海を駆け巡っていた右近権左衛門家や中村三郎右衛門(三之丞)家をはじめ、船主達の多くはこのチャンスを生かして大海原に進出し、幕末から明治前期にかけて日本海沿岸有数の北前船主が輩出したのである。